11月の夜、細い月の灯り

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死にたいかといえば死にたくはないしたぶん生きていくのだけれど、どうやらしでかしてしまったらしいと気づいた時、時間にして10分くらいは死にたくなる。

10分経つと少し元気になって「いいじゃん別に、くよくよしたってしょうがない」と自分に言い聞かせて立ち直った気分になったと思ったら、急に叫び出したいほど恥ずかしくなってまた10分ほど死にたくなる。

そんな交互にやって来る「しょうがない」と「死にたい」が徐々に緩やかになり、最終的に「しょうがない」と思える時間が伸びていくから何とか生きているが、もし「死にたい」の方が伸びてしまったら、私は死んでしまうのだろうか。

まだそうなった事がないからわからないが、「しょうがない」の時間が長くなっても唐突に「死にたい」が数分ほどやって来たりするので油断できない。

痛みにも似たその数分をやり過ごすために、私は冷蔵庫から焼酎のミニボトルを取り出す。

「死にたい」がやって来る前に、先回りして酒を煽って訳が分からなくなってやろうと思うのに、酔うと理性が薄まって我慢していた泣きたい気持ちが雫になって少しずつこぼれる。

泣いて元気になるなんてお約束っぽくてカッコ悪いと思いながら、酔って濡れたくしゃくしゃの顔で布団に潜り込み、丸々した小熊のように眠るのはなんだかんだで気持ちがいい。

いつもならそのまま朝まで寝ていられるのに、その日は11月にしては暖かい夜で、布団が暑くてすぐに起きてしまう。

時計を見る。午前2時。まだ2時間も寝ていない。

空になった焼酎のボトルを横目に、私は湿った首の辺りを軽く拭って、コンビニへ出かけることにした。

幸い次の「死にたい」はまだ来ていない。

今のうちに酒を買いに行かなくては。

外へ出ると部屋の中より1段くらいひんやりとしていて、何か上着を羽織ってくればよかったと少し後悔する。

細い月灯りを頼りに公園を抜け、コンビニでコップ酒を買って来た道を戻りかけた時、そこに彼女はいた。

小さくて古い公園の、朽ちかけた木のベンチに腰掛けた1人のおばあちゃんだ。

まるで小さな公園のサイズに合わせたみたいに小柄で、白髪交じりの髪をお団子にまとめ、袖なしのロングワンピースを着ていて、乾燥してかさかさと音を立てそうなくらい細い腕が伸びている。

右手にはほとんど空になったコップ酒のグラスを持ち、左手の指には短くなった煙草を挟んだまま、隣にいる古い障子紙みたいな色の犬の背中を撫でている。

微かに震える手は撫でているようでほとんど力は入っておらず、犬は撫でられている事にも気づいていなさそうで、時々小さなくしゃみをしながらベンチの上で腹ばいになって眠っている。

急に冷たい風が吹いてきて、私は長袖のTシャツと短パンで出てきたことに気づいて二の腕を揉んだ。

私が寒いんだから、肩から腕がむき出しのこのおばあちゃんはもっと寒いんじゃないだろうか。

焼酎の酔いが軽く残っていたのと、何かちょっと良いっぽい事をしたら「死にたい」がやって来なくなるんじゃないかと思い、私は勇気を出しておばあちゃんへ近づいていった。

「あの、よかったらこれ」

おばあちゃんは私が差し出したコップ酒を見て、黒いボタンのような目を一瞬こちらに向けたかと思うと、空のコップをベンチへ置き、震える手でそろそろと私の申し出を受け取ってくれた。

新品のコップ酒は枯れ枝みたいに細い彼女の指には重いのか、コップを持ったまま静かに膝の上に手を置いている。

「あの、開けましょうか」

そう伝えると、おばあちゃんは震える手でコップ酒を空のコップの隣に置いてここに、

と小さく掠れた声で呟いた。

新品のコップ酒の蓋を開け、空のコップに5分の1ほど注いで手渡すと、おばあちゃんは

震える手でコップを口元へ近づけてゆっくりと飲んだ。

喉仏も手と同じリズムで、震えるように微かに動いている。

黒くて小さい目はどこを見ているのか、口から飲んだ日本酒で浸したように潤んでいた。

「…てられたんよ」

「えっ?」

「捨てられたんよ、うち」

おばあちゃんがそう言うのを聞いた瞬間、私はいつになくこんな夜中に、よく見ればちょっと、いや結構怪しい人へ近づいたことを少し後悔した。

これからよくわからない話に付き合わされたり、帰れずに寒さで風邪を引いてしまったりするのだろうか、自宅はすぐそこなのにと考え始めた私を意にも介さず、おばあちゃんは言葉を続ける。

「好き合うてると思うとったん。可愛がられとったから」

部屋を出る時に感じていた暖かさは既に1ミリもなく、しんと冷たく乾いた夜空に細い月が浮かび、近くの街灯が月灯りのようにおばあちゃんの顔を照らしている。

「毎日夢に見るんよ。楽しかった頃のことな。もうな、それは楽しかったぁ。好きな人とな、手を繋いでな、コーヒー飲んだよ。ミルクの、ミルクホールでな、別れてそれっきりや」

それはおばあちゃんの過去の恋の話のようでもあり、昔観た映画か小説の話のようにも聞こえた。

掠れた声で短く話すおばあちゃんの語り口は思ったよりも嫌な感じがせず、「別れてそれっきりや」という言葉に、自分が昨晩しでかした格好悪い失恋の顛末をふと思い出して鼻のあたりがつんとなった。

「ずっと探しとるんよ。ずーっとよ。知り合いに聞いても知らん言うんよ。今度会う時は薄紫のスカート履いてきてと言うたのにな、今度が来んのよ。待っても待っても、ずうーと来んのよ」

おばあちゃんの麻のワンピースは色褪せて黄ばんでいるようで、縫い目の部分は薄い紫色をしているようにも見える。

「あの人はどこへ行ってしもうたんかな。うちはからかわれとったんかなーとちょっとも思うたけど、ええ人やったからな。今度会う時は紫の、薄い紫のスカートでいうてな」

そう言いながらおばあちゃんはふらっと立ち上がり、空になったコップと火の消えた煙草を持ったまま、今にも風に吹かれそうに歩いていく。

「聞いても知らんいうんよ。皆知らんていうんよ。そんな知らんことないわっちゅうてな、でも夢に見るんよ。うち毎日夢に見るんよ。手を繋いでコーヒー飲んでな、ミルクホールでそれっきりや…」

それまで眠そうに丸まっていた犬が急に起き上がり、おばあちゃんの声がする方へ静かに歩いていく。

ベンチにはなみなみと残された方のコップ酒が置かれ、さっきまでおばあちゃんと犬が座っていた空間が、今はぽっかりと空いて街灯に照らされている。

死にたいかといえば死にたくはないしたぶん生きていくのだけれど、これからもっともっと生きた後に、昨日しでかした事なんかきっと私は覚えちゃいないだろう。

あのおばあちゃんと同じ年になって、色んな事を忘れた後に砂金のように残る思い出があんなに切なくて美しいなら、もっと狂おしいほど失ってみるのだって悪くない。

私はおばあちゃんがいたベンチに座り、コップに残った酒をゆっくり啜りながら、重くなった瞼の隙き間から夜空を見上げた。

光る月はあまりにも細くて雲に隠れ、代わりに近くでチラチラしている街灯の方がよっぽど月みたいでちょっと笑えた。